好きなものは好きなんです。

好きなものを好きという、簡単で難しいこと

【関ジャ二∞】あと1ヶ月。

2か月。あっという間でした。2か月経ったら、あの日に参戦したツアーは終わってるし、彼ばかり取り上げられていた芸能ニュースは別の人を取り上げられるようになり、今は自担が取り上げられている。私生活で言ったら、就活が終わって、アルバイトばっかしてるし、就活とその生活のせいか体重がまた落ちた。あと2キロ減ったら久々に見た危ない体重とかになっちゃう。

日常生活はどんどん変わって、彼のことで泣かなくなったというか忘れていた。でもふと14日に明日が「15日」であることに気付いた。あれ?もう2か月じゃん。あ、そっか普通にテレビに出ていて、かっこいいな。可愛いな。大好きだなって思っていてもあと1か月で『関ジャニ∞』じゃなくなってしまうのか。

そう思うと風呂場で泣いていた。久々に彼を思って静かに泣いていた。

 

彼のことや彼が行うことを前向きに理解して、応援してあげられる自分は来るのだろうか?そんなの未だにわからないし、もし今は出来たとしても6人の関ジャ二∞を見て、私はどう思うのかなんて検討つかない。

実は北海道行きます。ベストアルバムだから実感がいつも以上にない。初めての北海道。好きなアーティストでは初めての初日。どんなセトリでどんなセットでどんな衣装か誰も変わらない日。怖い。とても怖い。この瞬間がきっと1番渋谷すばるがいないと思わされる瞬間なんだと思っている。そう考えるだけで怖い。

 

私は渋谷すばるが好きだけど、関ジャ二∞として7人で笑う渋谷すばるが一番好きなんです。

 

あと、1ヶ月。怖いです。

自担なら大丈夫は都合のいい言葉。

 

自担なら大丈夫。大学卒のインテリ系で、アイドルとしてもほかのお仕事もちゃんとしているし、世間からもファンからも好感度が高い。裏切るようなことをしない。

 

でも、明日は我が身。

 

勝手に安心しきっていた。大学卒でもインテリ系でもお仕事ちゃんとやっていても、世間からもファンからも好感度が高くてもやらかすときはやらかす。

 

 

自担似のイケメンに出会い浮かれていた私に釘を刺すかのように、Twitterは現実を見させた。『文春』という文字を見るだけで、人は嫌な予感を察知し、怖くなるのだ。

 

バイトのお手洗い休憩の5分もない時間に知った。1人でバイト先の従業員通路で携帯を見つめていた。読んでも読んでも焦るだけ。やばい。まずいと思った。

 

音声の話は知っていたし、私だって聞いた。そんなにお花畑じゃないから声はちゃんと本人のものだし、後ろの某ピエロのいるアーティストもすぐに分かった。作り物なんて私は言わない。ショックが大きかった。なにこれって。あの時は一瞬で気分が悪くなって、その日は自主休講した。今までちゃんと出てたんだからそれぐらい許して欲しい。でも、時間が経てば気持ちは勝手に収まって、最後には『なんでそんな危機感のないやつらと飲むの?』と自担やメンバーに非難の声を挙げたが、そんな軽い話ではなかった。

 

文春の記事を見た。芸能人らしい『僕達は未成年だって知らなかった』の言葉。本当か嘘かなんてどうでもいい。どっちみち言い訳にしか聞こえない。

 

芸能人は自分に価値をつける。インテリ系の真面目なアイドル。自担は金曜日の朝に、メンバーは平日の夕方に報道系の番組で記事を読んだり、コメントをしている。先月会見を開いた某先輩の件もコメントをしていた。

「しっかりしてくださいよ先輩」

ブーメランかよ。しっかりしてくださいよ自担。

 

朝記事が発売されるが、朝の番組ではちらっと見たところ取り上げられていなかった。しかし、このままお咎めなしというのもおかしな話。元メンバーの未成年飲酒の時はそこにいた大人も含めて処分を受けた。中には当時の職を辞めさせられた人もいた。どうする?自担やメンバーは何する?謝罪?番組降板?活動休止?解散?

 

メンバー4人のうち、2人もこうやって取り上げられてしまえば、活動だって危ぶまれる。「東京ドームにまた連れてきてね」と東京ドームを夢の場所という彼になんて言う?また連れて行ってあげたいって私は思ってたよ?まだまだ規に近いオタクだけど、あの場所で幸せそうに笑うなら新規だろうと夢を叶えてあげたいじゃん。

それに今年15周年だよ?まだまだいっぱい発表あるって言ったじゃん。メンバーがサッカーのお仕事で曲持ってきたじゃん。自担はドラマやるじゃん。もう生まれ変わりましたって言ったじゃん。イチゴのないショートケーキって言われるなら、最高のスポンジといちごになろうって言ったじゃん。意味わかんねぇよ、もう。

 

最悪解散したって庇いきれないよ。私はそんなに都合が良くて可愛い盲目なお花畑なオタクじゃない。この瞬間初めて自担がいなくなる瞬間を考えた。初めてファンクラブにちゃんと入って応援しようと思った自担。もしオタクをやめても、彼はどこかで応援しようとずっと思っていた。彼には彼の特別な思いがあって、大切な自担だ。それはこの先ずっとジャニオタを辞めたとしても青春時代のいい思い出となると思っていた。オタクをやめるのは私があなたから離れると思っていた。それも勝手な話だった。アイドルって何があるかわからない。もしかしたら自分の都合で担降りするのではなく、私は好きで好きでたまらないのに勝手にいなくなるってことがあるのかと思った。怖くて盲目なお花畑じゃないのに「どうしよう」しか言葉が出ないった。でもやっぱり庇えない。解散じゃなかろうと、どんなバツを受けようと。

 

記事によれば、自担は男飲みの場として参加とか言われてたけど、そんなの知らねぇよ。女がいて、コールや一気をするような飲みだって私だってやる。嘘、流石にコールは、、、、やったことあったから嘘じゃなかったわ。まぁ、そんなのはやってていい。だって、私だって飲み会好きで、お酒好きで、気持ちわかるから。でもね、実際にその場に未成年がいて、お酒を飲んでて、その音声が流失して、週刊誌に載ったことは事実なの。それが私は嫌なの。そして、それが罪になるの。バツを受ける対象なの。

 

これでバツを受けなければ受けないでまたそれは病みそうな話なんで、バツを受けるとは思ってる。むしろ何かしらのバツは受けてくれ。それでチャラになるかって言われたらならないけど、受けなかったらそれはそれでおかしいから。

 

正直、ドラマなくなれって思った。言いたくないし、言っちゃいけないけどそれがバツでもいいと思った。

でもね、本当はなくなっちゃ嫌だったからタイムリーにツイートした瞬間に予告を見てしまって電車の中で泣き出した。たった数秒の動画に泣いていた。ドラマのお仕事が来たのは15周年だからかもしれない。自担は「たまたま俺だった」って言ったけど、そんなことはない。一生懸命お仕事してて、イメージがあってたからそれが実ったんだと私は思ってる。じゃなかったら来ない。メンバーとやるのも楽しみ。まるちゃんとカジノレストラン行って学びになった。そんな話してくれた人に言いたくなかった。けど、心のどこかでは思ってしまった。それぐらい今回の件は私にとってショックでムカついて、悔しかった。なんで私が悔しいんだよって思うけど悔しいものは悔しい。

 

電車を降りると急いでオタクの友達に電話をした。泣きながら「訳わかんない。どうしよう」と言っていた。話せばグチャグチャになった頭の中は整理されるかと思ったがされなかった。帰宅していつもの倍以上あるアルコール度数の瓶カクテルを飲み干した。その結果朝は少し気持ち悪かった。気持ち悪く迎えた朝はやっぱり変わらず訳が分からなかった。

ただ一つわかることは『自担なら大丈夫』なんて言葉は都合のいいオタクの言葉だということだった。大丈夫なんてない。それは勝手な期待。私たちが知ってる自担はメディアの前のアイドルフィルターがかかった自担だけ。プライベートまでは流石にわからない。だから『自担なら大丈夫』って言葉は自分を落ち着けるための精神安定剤と変わらない。実感わかないだろうけど明日は我が身だよ、オタクのみんな。

 

 

 

 

 

自分に中で1番最悪な自体を考えたってブログでした。

 

そうそう、調べてみたら未成年飲酒の成人済みの同行者は監督代行者として、飲酒を止める義務があるから『科料(低額罰金のようなもの)』に処するらしい。言い方は悪いけど世の中のバツはたった1000円~1万円でことが済むけど、人が売り物の芸能人ってだけで代償がでかいね。しっかりしてくださいよ自担。

【関ジャニ∞】1ヶ月。

 

1ヶ月。1ヶ月というのはあっという間。最初の1週間は理解もできず、泣いていた。泣くのが疲れた頃には実感わかなくて、無で普通の日常を意識。その後、ほぼ何も無い時は泣かなくなったが、やっぱり思うと泣けてきた。

 

 

オタクとデュアルモニターをした。彼がいた。笑ってた。ひなちゃんが泣きそうな顔をしていた。「キングオブ男で亮ちゃんと手繋ぐのは誰かな?」「編成的にその前の3人のうち誰かじゃん?」1人ずつ想像して「やすかな?」って。実際に映像を見て、そこにいるのはすばるくんなのに泣いた。ずっとやってきた定番曲も変わってしまうのか。

 

Answerを見て泣いた。何にもわかんないけど、残す側と残される側として見てしまった自分がいた。どれだけ意志が固くて、物理的な距離が離れても親友と思っていても、残される側は辛いものは辛い。私はそれを知っている。

 

ノスタルジア。大号泣のまま、あの儚い美しさを見たが、そのまま大号泣していた。編成上、もしかしたらこの4人という組み合わせも減っていく、またはなくなるのかもしれない。

 

DVDを見なくても、日常に関ジャニ∞は溢れていて、ふとしたところで「これが最後」「もう最後」と平成ラストとカウントダウンするのと同じようにカウントしてしまった。

 

エイトレンジャーも私が好きなオモイダマも大阪ロマネスクも最後かな。もう「eighter」と呼んでくれないのか。好きな出だしはもう聞けないのか。

 

CDや記憶で残っていても、それは常に前進している関ジャニ∞とはずれが生じるし、記憶は美化される。私は捻くれ者だからそう思ってしまう。そんな1ヶ月だった。

 

定期的に深夜泣いた。今朝も情報解禁された大阪ロマネスクのMVで泣いていた。

 

 

『大阪から全国、世界へ』

 

『7人最後のMV』

 

 

淡々と言われる報道からの解禁情報は現実を突きつけるだけだった。彼の表情もコメントも最後やさみしさを感じた。何この意味深なやつ。いや、意味深も何も知ってる。聞いてる。今年の結成日は海外だって。今年のツアーからは彼はいないって。知ってる。ちゃんと知ってる。大丈夫。

 

何が大丈夫だよ。別グループの友達やジャニオタじゃない友達に「やだいなくなるのやだ」って何度言ったよ。もう1ヶ月なのに全く気持ちは変わらないし、意味わかんないし、は?って感じだし。もうほんと常にコップギリギリで生きてらから、喧嘩上等夜露死苦って感じの日常。そんなんだから彼らにもそんな感じに当たってしまうよ。ごめんね。悪くないのに。ちゃんと記者会見してくれたし、私たちのためにちゃんとみんなで言葉をくれた。でも、まだちゃんとしたの見れてないんだ。忘れようとして、実際見るの忘れてたんだけど、いざ見ようとなると怖くなって「もう見なくていいかな」って今日まできた。私はまだ私たちのためにしてくれたものを受け取れてないんだよね。

 

いい加減切り替えろってね。

 

でもね、フォロワーさんが教えてくれた。「時間は解決してくれないよ。妥協だよ」って。さすが先輩。私より何年も生きているだけあって、説得力増しすぎてますって。笑えないっすよ。

 

妥協、まだ出来なさそうです。

 

 

ツアーまでには切り替えたい。そう思ってる。いつもは何にもなくても泣けるぐらい涙腺げろ弱だけど、今回は一切泣かないで笑って自担に会いたいんだ。大丈夫だよー、元気だよーって。今回の件があるからってあなたから離れるわけじゃないよー。これからも一緒に笑っていこうねーって。

 

そうしたい。

 

それが目標であり、願望。

 

あああ~!でも私涙腺げろ弱だからなぁー!!!ほんと何でも泣けるから!!むしろ泣いてみせる!!ぐらいの勢いあるから!!!笑

困ったなぁー!!!

 

 

 

 

 

 

……ほんと困っちゃうよ、すばるくん。

ペンラやキンブレについて考えてみた。

 

きっかけは2018/04/29のSORASHIGE BOOK。

加藤シゲアキさんのラジオのお便りで「絶賛ツアー中のシゲアキさん的にはキンブレは賛成ですか?反対ですか?」というものが来て、シゲアキさんが『反対』と答えたというもの。

 

(∵)(キンブレ)反対です。これ言っちゃうとまた炎上しちゃうかな。ペンライト買ってとかそこまで言いたくはないのですけど、みんなも演出の一部というか、自分が自分がじゃなくてみんなで作り上げて行ったほうが一体感もあっていいんじゃないかなと。だから賛成か反対かであれば反対です。

 

とりあえず私が見たツイートを引用させていただいたのですが、これについて疑問が何点か上がった。

 

『キンブレを持っているファンの理由が理解出来ていないのでは?』とか『ファンはなぜペンライトを購入するのか?』とか『アイドルはペンライトをファンに買わせる理由は演出なのか?』とか。そんな疑問がどんどん出てくると、ちょっとイラッとしてきてしまった。

 

だって、ペンライトって2000円ぐらいするもので、使えるのってその年のみ。それを「演出のため」という確かに綺麗だけどそちらの満足のために買わせられていると考えられる。ファンのコンサート参戦スタイルはマチマチ。私は基本ペンライトは「思い出」として購入しているが、公演中は野鳥タイプなのでほぼ使わない。金額としてはそんなにしないが、使用価値が限られるものをそちらの自己満足で買うとなると少しムッとした。

 

まぁ、あの140文字でのツイートなのできっと言葉が省かれているし、ニュアンスが伝わらないと思い、音声を聞くとそんなことなかった。シゲアキさんは優しく言葉を選び、説教臭くならないように気を使っている。『反対』と言ったのもリスナーが「賛成か?反対か?」と聞いているからそう答えているのかもしれない。実際さっきまでムッとなっていたが、ずっと収まった。

 

 

もしかして、キンブレについてファン同士で揉めているのはファンや記事など間接的媒体のせいなのでは?と思った。

 

文字にするとその言い方や少しの間で意味は変わってくる。文字数制限されたもので伝えようとすると、語を少なくするからより言い方は強くなるし、細かいニュアンスは伝わりにくくなる。また、何でもそうだがやることには意味があるし、禁止していることにも意味がある。だが、どちらがを強く言ってしまうと反発心というものが必ず出てくる。それも関係してくるのではないか?

 

 

ちなみに反発心でムッとして色々書いたが、私自身はキンブレについてはどうも思ってない。キンブレシートは過去に作ってもらったことがあるが作ってくれた人に会えていないので手元にはないし、まずキンブレ自体過去に持っていたものは壊してしまい手元にはない。なので、私は現場に持っていかないし、もし持っていたとしてもフォトジェニッとしてしか使わないだろう。だって、手にはペンラを持つ余裕等なく双眼鏡が握られるから。そんな私から見たキンブレとペンライトについてを書いていこうと思う。

 

 

 

ジャニオタになる前はライブに通っていて、その時はサイリウム(百均などで売っている使い捨ての光量の弱いペンライト)から、コスパが悪いことに気づきキンブレに変えた。サイリウムは使い捨てだが、キンブレは電池が切れたら変えることが出来るし、廃ることがない。つまり、壊れるまで一生モノだと知っている。また、光量も強いから一段と綺麗な世界観が生まれることも知っている。

 

つまり『金額』という面でいえば、ペンラよりも断然キンブレの方がコスパがいい。ペンラはその年のみ。しかし、キンブレは壊れるまでずっと。

 

なので、たまに『キンブレ買うお金があるなら、公式ペンラぐらい買えるだろ?』という煽りや注意の仕方は少しずれている。実質、コスパはキンブレの方がいいのだから。

 

 

また、シゲアキさんも言っていたように『世界観の統一』の視点から見てみる。

 

確かにあの同じカラーで統一された世界観は美しい。だが、実際コンサートに行くと、昨年や過去のペンライトを振っている人や持っていない人などもいるので、完全なる統一された世界観は生まれることは無い。ここで注意してほしいのは別に全員が『買う義務がある訳では無い』ということ。だから、昨年や過去のものを使おうと、買わなかろうとそれは個人の自由なのだ。

 

ペンライトはグッズである。2000円あればコンサート後に友達とご飯に行ったり、自己投資のための化粧品を買ったりと新しく出来ることは多少なりとも増えてくる。なので、買わない、または買えないのもわかる。

 

実際私も必要性だけでいえば、買わなくていいと思っている。思い出としては買うが、コンサート中にペンライトを振ることがほぼないからだ。

 

では、なぜ買うのだろうか?

ちらりとフォロワーさんの中でアンケートをとってみたが、『グッズとしてあるから』『演出が綺麗だから』というものが票を抑えた。確かに。確かにそうだ。また、後者はペンライトの購入は『演出のため』である。

 

 

では、『演出』という視点から考えてみる。

正直に言おう。私はコンサートに参戦するファンを演出の一部という考えはあまり好きではない。結果論で、演出になるのならば話は別だが、コンサートを企画する初期設定から『演出』とされるならいい顔はしない。

 

私はコンサートに演出のために行っているわけではない。もちろんそれ楽しみの一つではあるが、一番は自担やメンバーを見るためだ。だから、コンサート中はほぼほぼ個人の世界に入り込み、個人として楽しみたいから行くのだ。まぁ、確かに生み出された世界に感動することもあるが、演出となるとそこには『義務』が生まれてくる。

 

ならば、某ピエロがグループにいるアーティストみたいに遠隔操作付きのペンライトと全員配布と全員回収すればいいし、某韓国アーティストみたいに元々チケット代にペンライト代を組み込んで配布すればいい。そうすれば絶対的に全員が持つため、世界観は統一され、演出として完成される。

 

しかししないのはこのペンライトで作り出す世界観は義務として拘束力はない。つまり、演出というには少し違うと考えられる。

私が考えるに演出とは必ずそれを守らなければいけない。出はけのタイミングやセトリ、照明の明暗のタイミングなど全て誰かが決めた演出を守ることで成り立つ。例えば誰かがずっとステージ上にいると次の曲が始まらない。次の曲はあの曲なのに流れてきたのは違う曲。暗転(照明を消す)のタイミングなのに消えない。この決めた演出に義務がなければ、決めた演出にはならない。つまり、演出というのは義務が必ずしも加わっていると私は考えている。また、余談だが、演出を生み出す裏方は仕事としてお金が発生するので、強制力は増す。しかし、ファンはむしろお金を払う側であるため、同じような強制力は生まれない。

 

しかし、客席のペンライトは『任意の演出』。つまり、強制力はないので、演出と言うには少し違うところも出てくると私は考える。

 

 

 

ここまで、勝手に自分的分析の『金額的視点』、『世界観の統一的視点』、『演出的視点』を見てきた。ではここで、なぜキンブレを持つのかという『利用者の視点』を考えてみる。ただこれは私はキンブレを持ってコンサートに行ったことがないので、憶測や人からの話を元に考えていくとする。

 

 

キンブレ。光量がサイリウムやペンライトよりも断然強く、中にはラメ入りのものなどがある。公式のペンライトよりも断然光は強く、世界観の統一や演出として見るなら使わない方がいいのは確実だが、これは裏を返せば『目立つ』とも取れる。

 

利用者の一番の利点はここだと考えられる。何万人というコンサート会場で自担の視点に入るのは至難の業だ。しかし、悪目立ちとも取れるが、視界に入ることが出来る。そこが大切なのだ。

コンサートの楽しみ方というのも人それぞれで中には『認知』や『ファンサービス』を目的としている人もいる。そんな人達はまず視界に入るということが、目的達成に繋がるため第一歩である。

 

しかしそれはアリーナやスタンド前列など、だいぶ可能な範囲は限られていた。遠ければ遠いほど埋もれて、個人の認識は難しくなるからだ。だから、過去には盛り髪や規定サイズ外のうちわ、グリット付きのうちわなどが出てきた。それは人よりも目立つためにある。ルール以内でいえば、双子コーデなどの服装もそれに値する。しかし、キンブレは光の目立ち。つまり、統一感のある演出であればある以上、その光は目立ち、そこに目がいくのだ。思うつぼ!!そして、光は距離があっても以前よりも目的達成の可能性が有り得る。

 

つまり、キンブレは今までの規定サイズ外のうちわやグリット付きのうちわ、盛り髪よりも目的のために大きな力を発揮するのです。だから、じわりじわりと増えてきている。

 

また、キンブレと言ってもただのキンブレではなく、独自のキンブレシートというものが作れる。オリジナリティというのは自己満足度を上げ、愛着が湧く。また、写真映えも重なれば、手元に持つ理由にもなる。

 

以上のことから、キンブレを持つのかと私は考えた。

 

 

 

改めていうが、私はキンブレについて何も思わない。きっと元々キンブレを振るのが当たり前の現場にいたし、利点も知っているし、その光の強さにも強い光だからこそ美しいという世界にも慣れてしまっているからだろう。

 

 

 

ここまで話して結局何が言いたいのかというと、この話だけではないがファン同士の揉め合いが私は嫌いなのだ。だが、私は平和主義者ではないので、正論だろうとそうじゃなかろうと『あなたは本当にそれを言える人ですか?』となる。

 

 

闇写見たり、保存してませんか?LIVE DVD転載してませんか?それを見ていませんか?無料媒体で音楽聴いていませんか?雑誌のキャプチャしていませんか?保存してませんか?チケット転売してませんか?自名義以外のチケット、有償無償問わず購入してませんか?

 

 

これだけじゃないけど、全部が守っている人なんて私は1割もいないと思っている。例えばLIVE DVD。転載されると「買わなくていいかな?」って人が増えて購入者が減り、利益も減る。雑誌や音楽も同じ。それってメンバーのためですか?でも、やっている人にも受け取っている人にも理由があるはず。それを正当化するつもりはないが、私は自分のことは許して、自分に都合の悪い相手だけ攻めることに疑問に思うのだ。だから、強い言葉だとしても真正面から注意できるのは全て正しいことをしている人だけだと思っている。

 

かと言って、強い言葉をかける資格のない後ろめたさを持つ者はどうすればいいのかなんてことは分からない。そうだなぁ。その人はもっとなぜその人がそれをするのかまで考えてから声をかけたら分かり合える部分があるのかも知らない、なんて綺麗事を言ってみようか。そうすれば「その気持ちもわかるが、こうしたいな」ともっと優しい声がかけられるはずなのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なーんてね。

 

 

私も後ろめたいことがある人だから、何にもいう資格はありません。ただ、キンブレを毛嫌いする方々はキンブレ核兵器のひとつにでも思っているのかなってレベルで嫌うので、キンブレの世界を知っている者としてはそこまで言われると少々悲しい。現場で使っていい、悪いは置いておいてキンブレはキンブレで素敵なものですよ。キンブレで一面埋められたあの世界は非日常です。今の私の推しはキンブレを振る人達ではないので、あの非日常が懐かしくなってます。また見たいなぁー、、、

 

 

 

 

 

 

P.S. 増田さんもブログでキンブレについて?書いたみたいですね。自担や推してるグループの人が触れたというのは、「彼も言ったからやっぱりやめて!」と周りがとやかく言うのではなく少しでも後ろめたさのある貴方個人の心に問いかけてるのかなぁ?なんてね。

 

 

 

あと、めっちゃキンブレ容認してるじゃん(ブチギレ)って荒れませんよーに。笑

ジャニオタが『りさ子のガチ恋❤︎俳優沼』を読んだ。

書店でたまたま見かけたのがきっかけだった。

 

去年舞台をしていたのを知って、ずっと気になっていた作品。行きたかったが、いろんな都合上断念。見送って、忘れた頃に書店で出会った。

 

『りさ子のガチ恋❤︎俳優沼』(この先ネタバレあり)

 

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4/20に発売されたらしい。

すぐに買い、読んだ。あっという間に読めた。同じ人間を追うオタクだからだろうか、「怖い」と思いながらもページをめくる手が止まらなかった。

 

きっと普段本を読まないオタクにも読みやすいと思う。オタク用語や空気感、週刊誌や感情展開などこの本には私が体験したり、知っているものがある。

 

簡単にこの話を説明すると『2.5次元舞台俳優 翔太にハマったりさ子がガチ恋になってしまう話』。ここだけ聞けば何が怖い?推しへのお金の出費か?状況が似すぎるからか?など、色々あるかもしれないが、一番怖いのは『りさ子の気持ちやしていることに共感してしまうこと』が怖い。

 

 

貢ぎ、全ステ(私の場合多ステ)、エゴサ。カノバレや愚痴垢、週刊誌の存在に敏感になる。

 

分かる。分かるぞ。

 

ジャニオタには「貢ぐ」というものを直接的に渡すことはないが、元々好きだったバンドマンにはよく貢いでいた。その頃も思い出した。少しでも気に入ってもらえるようなものを探したものだ。

 

とっても分かる。

 

ジャニタレはTwitterをやっていないが、「ランダムにリプライ返します」なんてやつもよく私はリプした。返事が返ってくると嬉しくてファボ、RT、スクショまでしていた。

 

とっても分かりすぎる。

 

カノバレした時、「裏切られた」と思ってしまうこと。分かる。え?仕事が今の生きがいです。ファンが大切ですって言ったじゃんと何度も私も思った。

 

りさ子の気持ちが痛いほどわかった。

 

 

他にも色んなものに共感した。

 

怖かった。

 

 

事が展開していって、ガチ恋になってしまったりさ子は接触イベントで何度も会いに行ったし、貢いでいて、認知もされていたと思ったのに翔太に「はじめまして」と言われてしまう。

 

その瞬間、彼女の中に積み上がっていたものが崩れた瞬間であり、崩壊へと道を開く。

 

 

 

 

まぁ、私が考えるにオタクって自己満足なんですよ。

 

コンサートに行くのも、グッズを買うのも、貢ぐのも。全部自己満足なんです。本当は。「行かなきゃ!」何ていう使命感に駆られてチケットを取りますが、私が行かなくてもその席は他の人で埋まるんです。ジャニーズやある程度ファンがいる人は私以外にもファンは沢山いる。ファンと推しはお互いで支えあわなければ存在し合えない!相互関係にある!なんて、ファンが数が多ければ多いほどもしかしたら想像の中だけかも知れません。

 

「○○くんのために❤︎」なんて言いながら、CD買ったり、円盤買ったり、雑誌買ったり、舞台行ったり。確かに自分の為でもありながら、○○くんのためなんです。結果論、売上が出ればメディアに出れるから。それは間違っていない。

 

でも、やっぱりお金って湧いてくるわけじゃないから本当なら別のことに使えるのに食費を削って、交際費を削って、自己投資を削って、推しである貴方に使う。そうなると「あなたにはお金を払う価値があるから使っている」という感覚になるし、使っているからこそ「こっちを見てほしい」とか「ちゃんと仕事に専念してほしい」とか欲とか意見が出てくる。それって出てきても当たり前の感情だと思う。

 

 

作中である俳優が「もちろん古参とか特徴のあるファンは覚えておるけど、数が増えれば増えるほどファンは個人ではなく、ファンという個体数で感謝をするようになる」と言っていた。

 

この言葉は分かっていながらも痛かった。

 

 

私は「篠崎」という個人ではなく、「ファン」なのです。

 

 

分かっている。私はわかっている。

 

 

そう思いながら本を読んでいたが、痛いものは痛かった。

 

個人として認識して貰える日は来るかもしれないし、来ないかもしれない。いや、私は普通のオタクでいたいから来ないことを望んでいるのだが。それとは反してどこかで「認知」望んでしまっているのかもしれない。その感情は認知欲求からくるものなのか、価値があると判断してお金を使っているからという推しへ求める等価交換なのかは分からない。

 

 

まぁ、この本は自己満足に納得出来なくなってきてしまったオタクにとって「危険信号」を出してくれるのかと知らない。とにかく、気になる人は一度読んでほしい。

 

 

読んで、「本当にこんな人いる?」と思う人もいるかもしれない。だが、いるのだ。

 

実際に認知のために良席を買い、実際に認知されている友人もいるし、推しと仕事がしたくてその道に進んだ人もいる。世の中そんなもんだ。

 

 

みなさんはぜひりさ子と同じ道を辿らないように……